無口・人見知り・引っ込み思案。それでも人生は変わった
文章を書く仕事をしている僕ですが、昔の国語の成績が特別よかったわけでも、子どもの頃から文章を書くのが得意だったわけでもありません。
必ずしも「コピーライター=昔から言葉が得意」ではありません。
現在、僕はマーケティング・コピーライターとして23社を支援しています。
- LPを書く
- メルマガを書く
- 広告を書く
- SNSを書く
- 電子書籍を書く
毎日のように「言葉」を扱っています。
だから、昔から文章を書くのが好きで、作文コンクールでは常連で、人前でもペラペラ話すような子どもだったと思われるかもしれません。
でも実際は、だいぶ違います(笑)
無口、人見知り、引っ込み思案
子どもの頃の僕は…
- 無口
- 人見知り
- 引っ込み思案
- 人前で話すのも苦手
自分から積極的に輪へ入っていくタイプでもありませんでした。
今でも覚えていますが「もっとハキハキしゃべりなさい」みたいなことを言われると、ハキハキしゃべれないから困っているわけで(笑)
ますます萎縮する。
だから当時、将来「言葉を使って人の心を動かす仕事をする」なんて言われても、まず信じなかったと思います。
僕は長い間「向いている人」がいると思っていた
- 文章を書く人
- 人前で話せる人
- 営業ができる人
- 発信できる人
そういう人には、何か特別なものがあると思っていました。
- 才能
- センス
- 性格
- 生まれ持った能力
そして、自分は、そちら側の人間ではない。
どちらかというと「できる人を遠くから眺める側」だと思っていました。
でも、人生は皮肉です
33歳のとき、会社が倒産しました。
離婚し、4人の子どもたちとも離れ、住む場所まで失った。
そしてホームレスになりました。
何もなくなったとき、僕には、立派な資格も、大きな資本も、強力な人脈も、ありませんでした。
そこで、メンターである神田昌典氏から授かった言葉があります。
「焼け野原に立たされたとしても、翌日には紙とペンだけで稼ぎ始める力」
この言葉が、僕の中に残りました。
「紙とペンなら、まだある」
すべてを失った人間に、何ができるのか。
- お金がない
- 会社もない
- 肩書きもない
でも…
- 紙とペンならある
- 考えることはできる
- 人の話を聞くことはできる
- 相手が困っていることを考えることはできる
- そして、それを言葉にすることはできる
僕は少しずつ「言葉を使って価値を生み出す」ということを覚えていきました。
最初から上手かったわけではない
ここは、きれいな成功物語にしたくありません。
突然、コピーライティングの才能が開花したわけではない(笑)
書いて、直して、また書く。
人の文章を読む
↓
反応を見る
↓
失敗する
↓
なぜ反応されなかったのか考える
↓
また書く
そして…
- 心理学を学ぶ
- マーケティングを学ぶ
- コピーライティングを学ぶ
- 人間そのものを学ぶ
その繰り返しでした。
才能があったから書いたのではなく、書き続けたから少しずつ書けるようになった。
僕自身は、そう感じています。
「文章力」という言葉にも少し違和感がある
文章力というと…
- 美しい表現
- 豊富な語彙
- 巧みな比喩
- 読みやすい構成
そんなものを想像するかもしれません。
もちろん、全部あれば素晴らしいです。
でも、ビジネスの文章では、もっと手前に大切なものがあります。
- 相手を理解しようとする力
- 何に困っているのか
- 何を怖がっているのか
- どこで迷うのか
- 何を言われたら安心するのか
- どうなりたいのか
そこを考えられれば、文章は変わります。
無口だったことも、今では「材料」になっている
面白いもので、昔は短所だと思っていた…
- 無口
- 人見知り
- 引っ込み思案
これらも、今振り返ると、すべてがマイナスだったとは思いません。
自分から話すのが苦手だったぶん、人を見ていた。
話せないぶん、頭の中で考えていた。
輪の中心に入れないぶん、少し離れたところから、人間関係を観察していた。
もちろん「人見知りになればコピーが上手くなる」という話ではありません(笑)
ただ、自分が欠点だと思っているものの中にも、別の角度から見れば使えるものがあったのです。
これは、後になって気づきました。
「できない」は、現在地であって身分証明書ではない
僕は昔「人前で話せない人」でした。
でも今は、音声でも情報発信しています。
「文章が得意な人」でもありませんでした。
でも今は、文章を仕事にしています。
だから「私は文章が苦手です」という人に会うと、少しだけ思うことがあります。
「苦手」は、今の状態を説明しているだけかもしれない。
それを「私は文章の才能がない人間です」という自己紹介にまでしなくていいのです。
「書けない」には原因がある
実際、文章が書けない人の話を聞いていると、才能以前のところで止まっていることがあります。
- 誰に書くのか決まっていない
- 何を一番伝えるか決まっていない
- 情報を詰め込みすぎている
- 正解を書こうとしている
- 人からどう見られるかを気にしすぎている
- 最初から100点を狙っている
これなら、書けないのは当然です。
性格ではなく、設計の問題かもしれないのです。
AIが登場して、さらに面白くなった
今は生成AIがあります。
- 構成を考えてくれる
- 言葉も提案してくれる
- 誤字も直してくれる
- アイデアの壁打ちもできる
昔の僕が見たら「それ、反則ちゃう?」と言ったと思います(笑)
でも、僕は歓迎しています。
なぜなら、文章を書くための技術的なハードルは、どんどん下がるからです。
その代わり「人間側」に求められるものが変わる
AIが文章を書けるなら、人間(コピーライター)はいらないという人もいますが、僕は、そうは思っていません。
むしろ、AIが文章を書けるほど、人間側には、別の力が必要になる。
- 何を伝えるのか
- 誰に伝えるのか
- なぜ自分がそれを伝えるのか
- どの体験を使うのか
- 何を削るのか
そして、最後に「これは本当に自分が言いたいことか」と判断する力。
AIがペンを持ってくれる時代だからこそ、人間は「何を書く人間なのか」を問われるのかもしれません。
僕は「才能」より「後から育ったもの」を信じたい
もちろん、才能はあると思います。
- 最初から文章が上手な人もいる
- 語彙が豊富な人もいる
- 感性が鋭い人もいる
そこを否定するつもりはありません。
でも、昔の僕のように「自分には才能がないから」と入口で諦めてしまう人には、伝えたいことがあります。
今できないことと、一生できないことは違います。
僕は、無口でした。人見知りでした。引っ込み思案でした。
三日坊主の常習犯でもありました。
それでも、今こうして、言葉を仕事にしています。
あなたの「苦手」は、まだ途中かもしれない
もし今、SNSを開いて、他人の上手な文章を見て「自分にはこんなの書けない」と思っているなら、今日だけは、比べる相手を変えてみてください。
人気の発信者でも、プロのコピーライターでも、AIでもない。
昨日の自分です。
- 昨日より、一つ具体的に書けた
- 昨日より、読者のことを考えられた
- 昨日より、自分の体験を一つ入れられた
それでいい。
文章は、一発で才能を証明する競技ではありません。
僕にとっては、自分の中にあるものを、少しずつ人へ届けられる形にしていく訓練でした。
33歳ですべてを失ったとき、僕の手元に残ったのは、特別な才能ではありませんでした。
紙とペン。
そして、もう一度学び直す時間でした。
そこからでも、人生は変わりました。
だから僕は「文章が苦手なんです」という言葉を聞くたびに、こう思います。
それは才能の判定ではなく、まだ物語の途中なんじゃないかと。
あなたが今「自分には向いていない」と思っていること。
それは本当に才能がないのでしょうか。
それとも、まだ十分に育てていないだけでしょうか?


